また850話・バルディオク裁判

ハヤカワ版, 誤訳

一段落ついたし、今回はもういいか、と思ったら、ロルヴォルクの城よりどでかい墓穴を掘る音がどこかから聞こえてきたので、もうちょっとやろうか(笑)

さすがにこの分量の「引用」はまずいので、基本、わたしの試訳だけである。ご了承のほどを。
太字にしてある箇所について、原文と解説(笑)を付記している。
誤訳っぷりをより堪能したい方は、ハヤカワ版と併せてご覧いただきたい。
6/16 ケモやん関連・結び等、追加修正
6/17 対比元の文章追加とか、いろいろ微調整

超知性体バルディオクの成立

10. 処罰

 ケモアウクとバルディオクが物質化した地点では、“平面”はもはや断片にすぎなかった。ギザギザに崩れおちた縁をさらした鋼鉄のかけらである。

すでに“平面”関連はだいたい紹介済だが、前の記事を見直していて、ありゃ、と思った。141pのバルディオクの物質化シーン。「“平面”のなかに」in der Ebene だった。auf der Ebene (平面上に)でない時点で、人工物内部であることに気づくべきであった。……と、最初の時点で書いていれば格好よかったんだけどね(笑)

 象徴だ! バルディオクは身震いした。これほど象徴的なことはない。
 七強者の時代は終焉をむかえた。“召喚”をもたらす、物質の泉の彼岸に住む連中は、プロジェクトを打ち切ったか、あるいは使命を与えるべき別の存在を探すのだろう。

原文:
Jene, von denen der RUF ergangen war und von denen man annahm, daß sie jenseits der Materiequellen lebten, hatten ihr Projekt abgeschlossen, oder sie würden sich sie nach anderen Wesen umsehen, denen sie Aufträge erteilen konnten.

直訳すると、「~打ち切ったのだ。それともこれから後任を探すのかもしれないが。」後半は、例によって接続法未来。ハヤカワ版のように「探したのかもしれないが(≒過去)」では、後任見つからなかったので打ち切り、になってしまう。探した結果は、エピローグで明かされる。

「見ろ!」ケモアウクが命じる。「これが残されたすべてだ。あるいはもっと外部にはほかの破片もあるのかもしれないが、きっとここよりましとはいえまいよ

原文:
aber das sieht dann bestimmt nicht besser aus als dieses hier.

ハヤカワ版は「ここからは見えない」としているが、分離動詞 aussehen 「~のように見える」が読めていない。das (それ=ほかの破片)は、nicht besser (よくない状態)に見える、ここにあるこの破片より(比較級 besser + als で比較級)。

「ホールは?」
「もはや存在しない」
「では……きみたち、別の集合場所を探さなくては」バルディオクが慎重にいった。

原文:
“Ihr… ihr werdet einen anderen Treffpunkt suchen müssen”, sagte Bardioc behutsam.

セリフ中の主語は二人称複数の ihr である。つまり、今後集まるメンバーにバルディオクが入っていないことを想定している。そこんとこを「慎重にいった。」のだ。原文は、大事なことなので2回いっている(笑)のに、まるまる削除するとか、わかってないんかい。

「そうだな」応じるケモアウクの瞳は、虚空へと向けられていた。
 バルディオクは他の者の姿をもとめて周囲を見まわしたが、明らかにふたりが最初に到着したようだ。ひょっとしたら、だれも来ないのでは。バルディオクはそう望みたかった。そうなれば、問題はケモアウクとだけで解決すれば済む。

原文:
Vielleicht, hoffte Bardioc, würden die vier anderen nicht erscheinen, dann konnte er die Sache mit Kemoauc allein austragen.

ハヤカワ版には最後の一文がない。単に冗長だということで削除されたのだろうか。
他の連中こないといいなー。そうすりゃ、(自分に同情的な)ケモアウクとだけ話せばいいんだもんなー、である。
バルディオクは、この時点でまだ事態を甘く見ているのだ。ずっと頼れるリーダーだったケモアウクが、ちらりと見せたやさしさに、情状酌量くらいなら勝ちとれる、と。
実はケモアウクもまた、深く静かに壊れかけているのだが……

わたしを発見した、と報告すればいい」と、提案する。「わたしは隠遁し、二度とあらわれない」

原文:
“Du könntest sagen, daß du mich gefunden hast”,

ハヤカワ版は「発見しなかったことにしてくれないか?」(うやむや)だが、「みつけて、ナシつけてきたぜい」(ミッションコンプリート)が正解である。
ケモやんがダメなら俺が俺が……と、なる、のかな? いまの強者連中でw

 ケモアウクの顔が、はじめて、わずかにこわばった。
「だめだ!」と、拒絶する。
 バルディオクはそれ以上詰め寄らなかった。意味のないことはわかっていたのだ。他の兄弟たちが、かれを罰するだろう。それで正しいのだ。今後再び、心をおなじくして行動すると約束したところで、どうしてバルディオクがそれを守ると信じてもらえようか。

原文:
denn wie konnten sie sich darauf verlassen, daß er ein Versprechen, in Zukunft wieder ihrem Sinn zu handeln, auch einhalten würde?

ハヤカワ版だと「ここを去ることができた場合も、自分が将来にわたって約束を守れるとは思えなかった……」と、バルディオクが意志の弱い子になってしまっている。
動詞 verlassen は確かに「離れる、立ち去る」だが、再帰動詞 verlassen sich (auf) には、「~を大丈夫だと思う、信頼する」の意味があるのだ。「できるか?」と訊かれたときの回答に、「まーかせて!」的に、わりと見かける用法だ。
そして、主語が sie 「彼ら」である。つまり、彼ら=ケモアウクら他の兄弟たちが「(バルディオクを)信頼できないだろう」と、書いてあるのだ。

 アリオルクが物質化して、バルディオクの思索を断ちきった。
 虚栄心に満ちた強者はあらたな衣服をまとっていた。幻想からとりだしたような、狂った装飾と唾棄すべき色彩の制服めいたやつだ。両腕の肘から先だけ持ちあげて、踊るようにバルディオクに歩みよった。
「親愛なるバルディオク」と、慈愛に満ちた声で、「いったいどうして、こんなことになったのだ?」
「そのなりを見てみるがいい!」バルディオクは侮蔑をこめて、「一目瞭然だろうが!」

原文:
“Wie hatte es nur dazu kommen können?”
“Sieh dich an!” antwortete Bardioc verächtlich. “Dann weißt du es!”

アリオルクの質問「なぜ?」を「なにが起こったのだ?」と誤訳した時点でアウト。
バルディオクの返答は、分離動詞 ansehen「正視する、見てわかる」で、「自分(のイカレた服装)を見てみろ!」となる。俺も、おまえも、今の仕事に疲れてブッこわれちまったんだよ、ということ。

 アリオルクは一瞬たりと動じなかった。バルディオクの周囲をぐるりとまわる。まるで観察に値する珍獣だとでもいうように。

原文:
für keinen Augenblick

一瞬だけは、für nur einen Augenblick である。言わせんなよ恥ずかしい。

「どこで見つけた?」と、ケモアウクに訊ねる。
「どこでもよかろう」ケモアウクは曖昧な身ぶりをして、「それが何の役に立つ? わたしはかれを見つけ、ここへ連行した。重要なことは、それがすべてだ」

原文:
Spielt das eine Rolle?

ハヤカワ版だと「なにを演じているのだ?」と、ケモアウクがアリオルクを無駄に揶揄している。アリオルクがイカレていることは、ケモアウクにとり既定事実なので、いちいち反応しない(参考:ムルコンの登場シーン)。
主語が du なら、まだわからないでもない。しかし、主語は「それ」 das ――この場合、前のアリオルクの質問「どこで(バルディオクを)見つけた?」とイコールだ。「どこだっていいだろ」というケモアウクの返答の文脈から、わかりそうなものだ。

「で、かれをどうするのだ? 物質の泉に突き落とすのか?」
正気か?」ケモアウクはぴしゃりといった。「かれは処罰されるが、そんな方法ではない」

原文:
Bist du von Sinnen?

「それにどれほどの意味がある?」(ハヤカワ版)って……その訳文は、さっきのとこで使おうぜ。
名詞 Sinn には「意味」という意味(笑)があるけれど、前置詞付きの熟語で von Sinnen sein 「正気をうしなっている」というのが、ちゃんとうちの独和にも載っている。

 その瞬間、バルディオクは気づいた。ケモアウクも、もはやかつてのかれではないのだと。兄弟が自分をリーダーとみなしているというのが、ケモアウクにとっても、これまで暗黙の了解だった。どうやら、その自信が揺らいだらしい。

原文:
In diesem Augenblick erkannte Bardioc, daß auch Kemoauc nicht mehr der alte war.

ハヤカワ版の「ケモアウクはまだ老けこんではいないらしい」というのは、どこから出てきたんだろ。alte を「老人」Alte のタイプミスと見たのかね……。ただ、auch 「~もまた」があるから、他に前例がなければこの解釈は成り立たないのだ。「ケモアウクもまた、もはや老人ではなかった」……だと、変だよね?(パルトクの登場はもっと後だし、元来かれらは不老不死だ)
ここは der alte Kemoauc 「昔のケモアウク」の省略とみなすべき。「今のケモアウク」は自信が揺らいでるから、高圧的な物言いになった……と、バルディオクは思ったということだ。
バルディオクは、まだわかっていない。何百万年にもわたり、つねに冷静沈着な頼れるリーダーだったケモアウクが、史上はじめてキレかけているのだ。

 アリオルクが、差しのべた自分の両手をじっと見て、
「まあ待つさ」それから、瓦礫の上空に生じた発光現象を指して、「どうやらムルコンが来たようだ」
 しかし、あらわれたのは、いかついロルヴォルクだった。かれはアリオルク、バルディオクと視線を移し、それからケモアウクに向かい、
「どちらだ?」と、吠えるように、「アリオルクか? バルディオクか?」
「どちらだと思う?」ケモアウクが反問でこたえた。
「アリオルクだな」と、ロルヴォルクは躊躇なく、「こいつが裏切ったのだ」
 ケモアウクが笑みを浮かべた。
「わたしだ!」と、バルディオク。
 ロルヴォルクは肩をすくめた。
さっさと済ませてしまおう。あとの連中はいつ来るかわからん。裁判官が、五人から三人になったところで変わるまい」

原文:
“Wir wollen die Sache hinter uns bringen”,

ハヤカワ版だと「では、問題解決だな」と、ロルヴォルク超せっかちさんである。
ここは、「われわれ、この案件を過去のものにしたいのだ」が直訳。
一部の北米先住民の神話だと、未来は後ろからくるものみたいだけど(笑) 後にしてきた、といえば、だいたいは「済ませてきた」=「過去にした」だろう。
主語が wir なのを、「みんなー、この問題を過去にしたくないかー?」という某大陸横断ウルトラクイズのりでとらえてみたのが、上記試訳になる。

「いや」ケモアウクが反駁した。「待つのだ」
 ロルヴォルクは悪態をつくと、瓦礫の上にあがり、うろつきはじめた。
まるで先延ばしにできない仕事を中断された労働者のようだ。バルディオクは憐憫とともに思った。だが、そんなことはありえない。
 おそらくロルヴォルクは、今回の危機を兄弟のなかで最もたやすく乗り越えるだろう。いかつい風貌は、その魂の表出といえた。
 しばらくすると、ムルコンがあらわれた。あるいは謎めいた客人たちを連れてきたりしないかとバルディオクは案じていたが、さすがに杞憂だったようだ。
「想像できるかね」と、ムルコンは挨拶代わりにいった。「わたしは宇宙の城をうしなうだろう

原文:
Ich werde meine kosmische Burg verlieren.

ハヤカワ版では「うしなった」とかなっているけど、接続法ですらない、単純な未来形である。I will lose my castle. だ。まだ、うしなってない。(後述)
また、単純な未来形であることは、「城をうしなう」という事実が、ムルコンにとって確定的、あるいは希望的な、素直な未来であることを意味する。(これまた後述)

「なんだと?」ちょうど戻ってきたロルヴォルクが、「何をばかなことをいっている?」
 ムルコンは両手をひろげた。いかにも快活なようすで、
「城をうしなうだろう、といったのだ。招待していた者たちが、わがもてなしを悪用してな。叛乱を計画し、城の占拠を宣言した。わたしは内部エリアへの撤退を余儀なくされ、いまはそこで暮らしている。内部エリアも現在包囲され、陥落も、もはや時間の問題だ

原文:
Sie belagern mich, und es ist nur noch eine Frage der Zeit, dann fällt auch dieser Teil meiner Burg.

ハヤカワ版「客たちはわたしを包囲しており、いずれ城の一部を破壊するだろう」って……。
「この部分」dieser Teil =「内部エリア」がわからなかったのだろうか。
それ以前に、Frage der Zeit を「時間の問題」って読めないんかね?

「この件が片づきしだい、われわれも同行しよう」と、ロルヴォルクが申し出た。「ごろつきども、銀河間の虚空に放逐してくれる」
「やめてくれ」ムルコンは拒絶して、「これはわたしと客たちの間の問題だ。つまるところ、かれらを招いたのはわたしだしな

原文:
Schließlich habe ich sie zu mir geholt.

ハヤカワ版曰くのように「解決できる」とは、ひと言もいっていない。そもそも、次のセリフを見ればわかるとおり、ムルコンは解決など望んでいない……けど、なんか解決するっぽく訳してるなあ(笑)

「もどってはいかん!」と、アリオルク。
 ムルコンは顔をなでた。表面的に快活をよそおっているが、バルディオクには、かれがいまにも崩れおちそうに見えた。
「いや、もどる」と、きっぱり宣言する。「叛乱に成功したあと、客たちがわたしをどう遇するか想像すると、胸が躍るのだ。あるいは、今度はわたしがもてなされる側にまわるのかもしれない――おのが城の虜囚として」

原文:
Ich bin gespannt, was sie mit mir anstellen, wenn die Revolte erfolgreich beendet sein wird.

ハヤカワ版は「わたしを捕まえれば、反乱も終わると期待している」だが、wenn「もし~だったら」の位置関係が絶対的におかしい。原文後半は「もし、反乱が成功裏に終結したら」である。
gespannt は「切迫した」あるいは「今か今かと待ち受ける」の意味だが、わかりやすい例をあげると、ネタバレ掲示板等で、「おもしろくなってきた! 次をわくわくしながら待ってるぜ!」てな形で用いられることが多いのである。
したがって、このセリフは「負けてつかまったら、いったい何されるのかなあ(ゾクゾク)」なのだ。ここで、ムルコンもまたブッこわれていることが判明する。
MはムルコンのMだったというオチである(をひ

 バルディオクは身震いした。ふと見ると、ケモアウクもまた同様だった。だが、これまでケモアウクはまだひと言も口をきいていなかった。ムルコンに帰還を思いとどまらせようとも、援助を申し出ようとさえしない。ケモアウクには、かれら全員がどういう状況にあるかわかっている。だからこそ、沈黙を守っているのだ。
「きみが宿を貸している客とは何者なのだ?」ロルヴォルクが訊ねる。「ことこの状況にいたれば、教えてくれてもよいだろう。だれを最初に招いたのだ?」

原文:
Unter den gegebenen Umständen könntest du uns einweihen.

ハヤカワ版は「どういう状況にあるのかはわかった。だが、」。
動詞 einweihen の意味は「伝授する、落成する、(秘密等を)打ち明ける」。「状況を(われわれに)打ち明けた(わかった)」って読んだのかなあ。かなり好意的(強引)な解釈だけど。
素直に考えれば、「与えられた状況下では/きみはわれわれに einweihen できるだろう/(だれを最初に招いたのかを)」となる。状況「を」 einweihen するわけじゃないのだ。

実はこの文章には前段があって、149pの「裏切ったわけではないが」が、「他にだれがいるのか、ムルコンはけっして明かさなかったが」の誤訳なのだ。前回書いた、verraten ×「裏切る」、○「吐露する」の実例なわけ。前提がないから、正しく訳せないわけである。

「いつか訪ねてきてくれ」と、ムルコン。「そうすればわかる」
 そこへ青白いエネルギーの微光とともにパルトクがあらわれた。陰気な男の姿があらわになると、その場の全員を衝撃が襲った。

原文:
Als der Düstere daraus hervortrat,

ハヤカワ版は「どんよりした空が明るくなる。」……。
daraus は「それ(微光)から」。Düstere は、düsterer Mann 「陰気な男」で、実際ハヤカワ版でも前の章ではパルトクをそう形容していた。
だいたい、“平面”の空は、いつも星空じゃろが……って、その前提が成り立ってなかったんだっけ。

 パルトクであることは見違えようがない。だが、かれは“老いて”いた。
「なにをそうまじまじと見る?」と、パルトクは挑むようにいった。
 ケモアウクがかれに歩み寄り、その手をとると兄弟たちのもとへ導いた。
「何が起きた?」と、おだやかに訊ねる。
「見てのとおりだ」パルトクがうなるように、「不死性を放棄した。まだここへやってこられたとは、奇跡だな」
 バルディオクは気が狂いそうだった。兄弟のひとりの変わりはてた姿を見るのは耐えがたかった。
「放棄した?」アリオルクはどもった。「理性をなくしたのか? その喪失にひきあうものなどないのだぞ! なにひとつ!」
 そういうと、アリオルクはパルトクに歩みより、その胸をこぶしで殴りつけた。パルトクは人形のようになすがままであったが、顔をゆがめ、咳き込みはじめた。
「やめるんだ!」ケモアウクが命じた。
「なぜだ?」アリオルクは吐き出すように、「なぜ、そんなことを?」
 パルトクの遠い視線はアリオルクを見ていなかった。その双眸に熱病のような輝きが宿る。バルディオクは、陰気な男の胸中を悟った。その心は、すでにここにはない。
死すべき女を愛したのだ」と、パルトク。

原文:
Einer Sterblichen zuliebe.

ハヤカワ版は「死すべき者のためなのだ」……うん、正しい。正しいよ、独文和訳としては。zuliebe は「(III格と)~のために」だからね。でも、そこに「愛(Liebe)」があることを、ちょっと考えてほしい。
独独をみると「jemand zu Gefallen」(Gefallen は「好意」、 zu Gefallen で「~のため」)とか「weil es jemand gern möchte」(その人が好きだから)とか、要するに「好きな人のため」なのだ。
そして、問題のIII格の名詞は……これ、女性形である。
女で身を持ちくずした」ことがわかんなくっちゃダメだろうwww
だから、アリオルクの質問が「では、きみは自分の城で生きるのだな?」(ハヤカワ版)とか、「彼女と」をとっぱらって意味不明になっちゃうのだ。

 アリオルクがびくりと身を縮め、
「城でいっしょに暮らしているのか?」
「兄弟よ」と、パルトクは泰然と、「きみは何もわかっていない。わたしは彼女のもとで暮らしている。別の世界で、幾百万の死すべき者たちとともに」
「正気の沙汰じゃない!」アリオルクが叫んだ。
「死すべき者の人生は」と、パルトクは夢見るように、「短く、めくるめく陶酔のようだ。美酒に満たされた杯を傾けるのにも似ている。ひといきに飲み乾せば、すべて終わってしまう。狂ってはいないよ、アリオルク。わたしは選択をしたのであって、その結果に満足している」
 ロルヴォルクが兄弟たちの間に歩み出て、パルトクを指さし、
かれが――死すべき者が――不死者を裁けるのか?

原文:
Kann er – ein Sterblicher – über einen Unsterblichen richten?

ここでいう「死すべき者(単数)」はパルトクで、「不死者(単数)」はバルディオクである。こんな単純な比喩表現がわからないのでは、小説なんて訳せるはずがない。
ハヤカワ版では「かれら……死すべき者を、不死者が導くのか?」としている。しかし、「かれら」に相当する位置にあるのは er 「かれ(単数!)」だ。いったいどこで人数が増えてしまったんだろうか。

あと関係ないけど、以前から思っていることだが、ハイフンはハイフン、三点リーダーは三点リーダーとして訳そうよ。使い分けで「溜め」の雰囲気が、がらっと変わるんだからさー。

「わたしはそんなことに価値を見出さない」と、パルトクはいった。「ひょっとして、裏切り者の追放先に、わたしのもとを選ぶ気か? かれを死すべき者たちのもとへ伴うことには、異存ないが」

原文:
“Vielleicht verdammt ihr den Verräter dazu, mit mir zu kommen. Ich bin bereit, ihn mit zu den Sterblichen zu nehmen.”

ハヤカワ版では「もしかすると、きみはそれを裏切りと解釈するかもしれないが……わたしは進んで死すべき者のなかにはいっていくのだ。」となっている。原文中の「裏切り者」、「かれ」が、どちらもバルディオクを指していることさえわかっていないのだ。
前半を直訳すると……「あるいは、君たちは裏切り者に呪いをかける(罰をくだす)かもしれない、わたしとともに行くという」くらいかなあ。

パルトク的には、バルディオクに同情を寄せるところもあり、「死すべき者の世界も、よかとこじゃよ?」みたいな申し出なのかもしれない……バルディオクは冷や汗たらしてる可能性大だが(笑)

「パルトクは依然われわれの一員だ」と、ケモアウク。「ゆえに、かれも評決に参加する」
 “かれを”裁くために集まったことは、すっかり忘れ去られてしまったな、とバルディオクは皮肉に考えた。裏切り者の処罰が問題だったはずなのに、ほとんど話題にすら昇らない。これでは、無罪を告げる以外、選択の余地はないのではあるまいか。とはいえ、そんな幸運が訪れるはずもないこともわかっていた。

原文:
Fast schien in Vergessenheit geraten, daß sie seinetwegen gekommen waren, dachte Bardioc.

ハヤカワ版では、わざわざ強調までかまして「それも、ほとんど〝ケモアウクのため〟の決定ではないか……」とかやっている。おまけに「忘れ去られた」ことが、忘れ去られたようだ(笑)
かれらが(sie)来たのは(gekommen waren)、かれのため(seinetwegen)、なのだ。はて、6人の強者がここに集ったのは何のためであったろうか……。
ケモアウクを賛美するためじゃないだろう?

 不屈のケモアウク、伝統を決してないがしろにしない男が、頑固なロルヴォルク同様、無罪への道に立ちはだかる。この二票に対するのが、ムルコンとパルトク。すなわち、決着をもたらすのはアリオルクということだ。アリオルクは、疑う余地なく、ケモアウクやロルヴォルクと同じ決断を下すだろう。

原文:
Der unbeugsame Kemoauc, der die Traditionen niemals verleugnen würde, stand einem Freispruch ebenso im Wege wie der harte Lorvorc. Diese beiden Stimmen gegen die von Murcon und Partoc, das bedeutete, daß Ariolc die Entscheidung herbeiführen mußte. Ariolc, daran bestand kein Zweifel, würde so entscheiden wie Kemoauc und Lorvorc.

ハヤカワ版では、「ケモアウクは(中略)ムルコンとパルトクを〝無罪〟とした」、「アリオルクは(異議を唱えた)」、「ケモアウクとロルヴォルクの合議で決定とする」って……もう現場で何が起きているのか、読者には皆目わからない。ドイツ語の単語の上に日本語の意味を書いて、意味が通じるように並び替えてみた……という、語学初心者的な訳文だ。
余分な修飾をとっぱらって考えれば、そんなに難しくないのに。Kemoauc stand im Wege / wie Lorvorc. 「ケモアウクが道に立ちふさがる、ロルヴォルクと同じく。」だ。
この本文がわからないまま、「伝統」と「無罪」をどこにあてはめたらいいか迷ったあげく、次の文章と“合体”してしまっている。さらにあぶれた gegen が、アリオルクの方へくっついて……。
機械翻訳ならば、翻訳ソフト買い換えた方が良いよー、と助言するところだが、そうでないのだとしたら、いったい何を買い換えてもらえば良いのだろうか。
die (Stimmen) von Murcon und Partoc. と補うだけで、だいぶわかりやすいと思うけどなあ。

「兄弟よ」と、ケモアウクはバルディオクに、「きみには発言する権利がある。罪を軽減するかもしれない、あらゆることを」
 耳を傾けるものなどいるのか? バルディオクは自問した。
 極刑を決定事項とみなすロルヴォルク?
 おのが城での決定的敗北を熱望するムルコン?
 屍も同然で、心は死すべき女への愛でいっぱいのパルトク?
 自分の見せ場をつくることしか頭にないアリオルク?

原文:
Ariolc, der nur daran dachte, sich selbst um jeden Preis in Szene zu setzen?

これまた名詞 Szene の項に、「sich in Szene setzen 《俗語》自分をひけらかす」とある。ハヤカワ版の「どのようなことがあっても動じない」って、その訳は251pのアリオルクの説明に使うべき(爆)
とゆーか、ここは、壊れてない兄弟の無神経っぷりと、壊れた兄弟たちのダメっぷりを列挙して、バルディオクがあらためて不安かつ悲しい気持ちになっていくシーンである。そういう小説としてあたりまえの表現技法も読み取れないのかなあ。

 聞く耳を持っているのはケモアウクだけではないか。
 そしてケモアウクは全員の行動原理を、おのれのもの同様に承知している。ケモアウクには説明など必要なかった。
「いや」バルディオクはいった。「話したくない」
 ケモアウクは兄弟のサークルを見まわして、
「だれか、バルディオクを弁護しようというものはいるか?」
 だれひとり反応しない。
「では、わたしが弁護しよう」驚いたことに、ケモアウクはそう告げた。「かれの蒙昧を、先見の無さを語ろう。かれに責務を負わせることがゆるがせにされてきたことを語ろう。かれ、不死なる者が、同じ動きしかくりかえさぬ一種の機械たらしめられ、その尊厳が貶められてきたことを

原文:
Ich werde von seiner Blindheit sprechen, von seiner Ahnungslosigkeit. Ich werde davon sprechen, daß man es versäumt hat, ihn in die Verantwortung zu nehmen. Man hat ihn, einen Unsterblichen, zu einer Art Maschine herabgewürdigt, die immer ein und dieselbe Bewegung ausführen muß.

原文中に出てくる主語 man は、「人間一般」を意味する、翻訳の際に取扱いがめんどーな単語のひとつだが、この場合、「世の中(世間一般)」で良い。「バルディオクは悪くない。世の中がみんな悪いんや」である。敢えていうなら、かれら七強者に使命をあたえた「委託者」――後に云うコスモクラート――を指す代名詞と思えばいい。少なくとも man =バルディオクということはありえない。
永遠の生命とか与えられて、あとはただひたすらボタン押すだけの仕事をさせられてたんだから、同情の余地はあるよね? という弁護である。
ここを、ハヤカワ版みたいに「この者は不死者の権威を(中略)貶めたのだ」と誤訳したら、弁護でなくなってしまう。嫌味ですらなく、直球の糾弾である。これに感動して感謝するバルディオクは、言葉責めにもだえるムルコンM2号ということになってしまう(笑)

 バルディオクはそれ以上、耳を傾けなかった。ケモアウクはもう一度、どのようにこの裏切りにいたったかの詳細を語った。その言葉の端々には、理解と――バルディオクにとってはいっそう驚くべきことに――七強者へ使命を与えた者に対する、かたくなな憎悪がにじんでいた。
 よりによって、伝統主義者にして最も忠実なケモアウクが!
ここで問題とされるのは、物質の泉の意味や“召喚”の正当性ではない。それらすべてに異論の余地はない。問題は、われわれが無慈悲に使いつぶされてきたことだ。おのれの城で意識を得て、生きはじめた瞬間から、われわれは利用されていた。われわれにチャンスなどなかった。バルディオクにもだ」

原文:
Es geht hier nicht um die Bedeutung der Materiequellen oder um die Berechtigung des RUFs”, sagte Kemoauc. “Das alles ist unumstritten.

es geht um ~ 「~が問題だ」は、 es handelt sich um ~ 「~である」や in der Lage sein ~ 「~できる」と並んで、翻訳するのに厄介なドイツ語の慣用表現。
ただ、次の文章を含めた段落全体で見てみると、案外単純な構造が見えてくる。最初に Es geht nicht um… 「~は問題ではない」と表現し、次の文章で Es geht um… 「~が問題なのだ」と表現している。段落規模の、nicht A (sondern) B (AじゃなくてB)である。
ハヤカワ版みたいに「語られたことはない」んじゃなくて、いまそれを語る必要はない、のだ。

「兄弟よ」バルディオクは感動していった。「感謝する」
「ではあるが」と、ケモアウクは動じることなくつづけた。「バルディオクはおのが意志の主人であった。自分のしたことを承知していた。かれは、われらが兄弟ガネルクが、監視者カリブソとして追放の生を送らなければならないことに責任がある。もしいま、時知らざる者の同盟の瓦解がはじまるとしたら、それもまたバルディオクの咎だ。そのために、そのためだけに、かれは処罰されねばならない」
 胞子船の濫用や“大群”の操作は不問にされたわけだ、とバルディオクは理解した。だが、兄弟への裏切りは別だ。
「評決をとる」と、疲れた声でケモアウクが告げた。「かれのいったことを、皆よく考えてほしい。わたしは、有罪に票を投じる」
 ロルヴォルクが両のこぶしを握りしめ、一歩前へ出ると、
「有罪!」
「無罪だ!」と小さな声でムルコン。
「うむ。無罪!」と、パルトク。
 アリオルクは決定権を行使するのを楽しんでいた。背筋をのばし、幻想から生まれた制服のすそをつまむ。吐き気がして、バルディオクは目をそらした。

原文:
Bardioc sah angeekelt weg.

これだけ、独立した文章である。主語はバルディオク。
それが、どうしてハヤカワ版は「(アリオルクは)バルディオクに軽蔑の視線を向け」になるんかね。
ちなみに、バルディオクのとった行動の結果を思うと、ひょっとして、ここで目をそむけずにアリオルクの服を誉めたら、無罪だったんじゃなかろうか?(笑)
泥をかぶっても(笑)の気概がないバルディオクには、この期に及んで、まだ事態の深刻さが理解できていない。だから、ケモアウクの判決を聞いて、がーん、となるわけだ。

「有罪だな」と、ついにアリオルクがいった。
「きみは時知らざる者の同盟を裏切った」ケモアウクが宣告する。「兄弟を裏切った咎により、有罪となす。バルディオクよ、知ってのとおり、われわれにきみを殺すことはできない。だが、可能なうちで最も重い量刑が科される」
 バルディオクは顔を殴られたように、よろめき後ずさった。頭に血がのぼり、
「うそだ!」と、必死に叫んだ。「そんなこと、できるはずがない」
 ケモアウクの顔に生気はなかった。瓦礫の上空に渦巻く星団の光を浴びて、まるでいわおのようであった。

原文:
Kemoaucs Gesicht war ohne Leben. Im Licht der wirbelnden Sonnenmassen über dem Bruchstück wirkte es wie ein Stein.

原文、かっこいいんだけどねえ……。
いろいろこみあげるものを、意志の力でおさえつけてる顔だろう。
ハヤカワ版「ケモアウクは顔面蒼白で」、って、いまにも貧血で倒れそうにしなくてもよさそうなもの。

「判決は、肉体剥奪だ」

-*-

 ひとりまたひとりと、互いに見知らぬ者同士のように去っていった。それぞれがすでに自身の問題で頭がいっぱいなのだ。結局、“平面”の残滓に残ったのは、ケモアウクとバルディオクだけだった。バルディオクはすすり泣いた。
「わたしに丸投げだな。だが、まあ、承知しておいてしかるべきだった」と、ケモアウクが嘆いた。

原文:
aber das hätte ich wissen sollen.

自信喪失したリーダーが、おのおの勝手なことをはじめた仲間たちについて、馘になったメンバーに向かってぼやくの図。
どこぞのプログレバンドにでもありそうな、イヤなシーンである。削除されたのもむべなるかな(をひ

(中略)
 脳髄をおさめたカプセルを適当な洞窟に設置すると、ケモアウクはおのれの城へと戻った。バルディオクのことを思考から閉め出す。
 ほかの強者たちのことも忘れた。

原文:
Auch die anderen Mächtigen vergaß er.

ハヤカワ版は「ほかの強者も同様に、裏切り者のことは忘れたようだ。」。
たしかに、die anderen Mächtigen 「ほかの強者たち」だけでは、主語(I格)か目的語(IV格)かわからない。しかし、vergaß が、動詞 vergessen 「忘れる」の過去形であり、対応するのは主語が一人称単数ないし三人称単数である場合なのは、ちょっと調べればわかるはず。複数形なら、vergaßen でなくてはならない。
er が三人称単数I格であることは、いまさら言うまでもないこと。
したがって、主語は er (ケモアウク)である。
ひるがえって、「ほかの強者」はIV格の目的語であることがわかるので、「同様に(auch)他の強者たち“を”、かれ(ケモアウク)“は”、忘れた」のだ。
こんな短い文章の、小学生の国語レベルの初歩文法を、説明されなきゃわからんのか?

 いつか、数千年を経てから、かれは城を封印し、立ち去った。
 ケモアウクはいずことも知れない目標へと姿を消し、以後、その姿を見たものはなかった。

……。
前から書いてることだけど、格と性と数と時制はちゃんと訳せ……というのも詮無い、文章構成の基本すら放り出したような例が多いのには驚かされる。
主語くらい、ちゃんと確認しようよ。
知ってる単語だけで文章ねつ造しないでね?
わからない単語は、ちゃんと辞書引こう?
カンマで区切られた文章は、どこがどこの修飾か切り直してね?
とか、大学の第二外国語の教師でさえ言わんよーなこと、言いたかないよ。わたしだって。
超訳をきどっているのかもしれないが、原意のかけらもないこんなの、ただの誤訳だ、誤訳。

正直、これは訳者の問題だけでなく、編集者の問題でもあると思う。
ローダンのためだけにドイツ語なんて勉強してられんだろーし、原語がわからないのはしょうがない。でも、現状だと、日本語として読んで、おかしなところをチェック・指摘するという、編集者として最低限の作業がなされているとは、とうてい思えない。
しょせんローダン・シリーズなんてドイツの週刊低俗読み物だから、適当に書きなぐった文章の寄せ集め……だから、訳者がいくらがんばっても意味不明な文章にしかならないとこもあって当然、とか、原文(ドイツ語)読めるやつなんて、そうそういないから、文句つけてくることもないだろし、適当に読み流してりゃいいや……なんて、バカにしていないだろうか?
もし、そんなことないというのなら、日本語として意味の通らない文章にOKが出ているのは、いったいなんでだ?

『バルディオク』の著者であり、当時のシリーズの草案作家でもあったフォルツは、ローダンに心血注いで(そのために、まちがいなく生命を縮めて)46歳で亡くなったのだ。力及ばぬところはあったとしても、手抜き仕事なんてしていない。
そのかれの、最高傑作のひとつが、邦訳として多くのファンに読まれることは、一ローダン・ファン、一フォルツ・ファンである自分にとって、快哉して慶ぶべきことだったはず。

なのに、これでは、ちっともうれしくないのだ。

Posted by psytoh